生物農薬利用促進のために情報システム整備が必要である

−天敵カルテ構想−


大阪府立農林技術センター 田中 寛

1.はじめに:日本で生物農薬が普及しにくい原因の考察
 近年,日本でも生物農薬の登録が急速に進んだが,それに比べて普及はなかなか進
まない。まず,この原因について考察してみたい。なお,本稿ではBT剤は生物農薬
に含めず,また単純化のために天敵昆虫(以下天敵)を例にあげて議論する。
 現在登録されている天敵は主としてオランダなどの北ヨーロッパで開発されたもの
であり,マニュアルも北ヨーロッパのものに準拠している。しかし,北ヨーロッパの
マニュアルにしたがって日本で天敵を使用した場合,効果が不安定でバラツキが大き
いことにすぐに気がつく。
 キーワードは日本の栽培環境条件の多様性である。①日本は北海道から沖縄県まで
気候が多様である(温度・湿度条件が天敵の活動に不適な場合がある;害虫と天敵の
増殖速度のバランスが異なる)。②作物・品種が多様である(被害許容度が異なる;
葉面構造等が天敵の活動に不適な場合がある)。③同一作物でも栽培体系が多様であ
る。④施設の大きさ・形状が多様である(微気象が異なる)。⑤施設の外界に対する
開放性が多様である(施設内の害虫相・土着天敵相が異なる)。⑥施設外の環境が多
様である(害虫相・土着天敵相がさらに異なる)。⑦農家の害虫発生に対する寛容度
が多様である(秀品志向農家,生協出荷農家,有機栽培志向農家で非常に異なる)。
①〜⑦により得られる結論は「天敵の活動・評価に及ぼす要因が北ヨーロッパに比べ
てあまりにも多すぎる」。北ヨーロッパのマニュアルを用いて効果にバラツキが出る
のは必然であり,これが天敵の普及を遅らせる最大の原因であると考えられる。
 スペインやイタリアなどの南ヨーロッパ,アメリカ合衆国でも日本と同様の条件下
にあり,天敵の普及は順調でない。なお,スペインでは天敵と選択的農薬等を併用し
た総合的害虫管理,総合的作物管理の試みが活発に行われ,この点では日本よりやや
先行している感があるが,この試みもやはり天敵の活動に及ぼす要因が多いことに起
因すると考えられる。以上を総合すると,天敵の効果は北ヨーロッパでは確定的,日
本,南ヨーロッパ,アメリカ合衆国では確率的,と考えてもよいだろう。

2.北ヨーロッパと異なる戦略
 上記のように,北ヨーロッパの栽培環境条件は日本など(以下日本)に比べると一
様,かつ閉鎖環境であると言える。要防除水準等に基づく単一のマニュアルで天敵を
使用することが可能であり,現に優れた防除効果が得られている。しかし,日本では
上記で述べたとおり,単一マニュアルは不備が大きすぎるため,全く異なる戦略の構
築が必要と考えられる。
 「単一マニュアル」に代わる戦略のキーワードは「メニューからの選択」である。
①天敵使用事例の情報を集積してデータベース化しておき,②天敵使用者は各自が自
分の条件に近い事例(メニュー)をデータベースから呼び出して成功・失敗事例を比
較検討し,③最適な使用方法を決定する,という手法である。この手法にはインター
ネットおよびコンピューターハードウェア・ソフトウェアの進歩が不可欠であり,わ
ずか2〜3年前であれば「絵に描いた餅」に終わったところである。なお,これまで
にも農業用データベースはさまざまなものが作成されているが,そのほとんどは利用
者側の視点・利便性が大きく欠落してニーズと乖離したものになっており,利用され
ないままで終わっている。この反省は十分に行わなければならない。

3.天敵カルテ構想
 上記の戦略に基づく情報システムを「天敵カルテ」とネーミングし,現在ボランテ
ィア組織である「天敵カルテ企画幹事会」によりシステム構築を進めている。天敵カ
ルテ企画幹事会(以下幹事会)は1999年2月に発足し,7月31日現在,都道府県試験
場・防除所,農水省試験場,大学,天敵企業,日植防の21名の有志で構成されている
。明文化された幹事会の目的は次のとおり:「天敵カルテ企画幹事会は天敵IPMデ
ータベース(注.天敵IPM:天敵を用いた総合的防除)を開設し,研究開発中のも
のを含めた天敵,および天敵IPMに関する有益な情報の蓄積と共有化を図り,他の
手段・手法も有機的に結合して,天敵IPMの普及・実用化のために活動する。」
 天敵カルテのフローチャートを下図に示した。天敵カルテは,①事例のカルテシー
トへの記入,②データベースへの登録,③ホームページでの公開,④事例の検索・利
用,⑤新事例の記入,という回路を持つ。また,④事例の検索・利用にあたっては,
⑥ユーザーズマニュアル,⑦天敵IPMガイド,⑧天敵IPMメーリングリスト,⑨
天敵IPMアドバイザー,⑩天敵に関するパンフレット・技術資料・論文・書籍・新
聞記事等のデータベース,等の支援システムを併用・整備する。

                                    ①事例のカルテシートへの記入
                                          ↓                               ↑
                                    ②データベースへの登録                 ↑
                                          ↓                               ↑
                                    ③ホームページでの公開                 ↑
⑥ユーザーズマニュアル                    ↓                               ↑
⑦天敵IPMガイド                        ↓                               ↑
⑧天敵IPMML            →→    ④事例の検索・利用                     ↑
⑨天敵IPMアドバイザー                  ↓                               ↑
⑩各種資料データベース                    ↓                               ↑
                                    ⑤新事例の記入         →→            ↑

 ①カルテシートは事例の記入様式であり,記入者のプロフィール,栽培概要,天敵
・農薬・その他資材の処理歴,評価,結果概要,考察・備考等,をA4版両面2ペー
ジにコンパクトにまとめたものである。基本方針は「データの精粗にこだわらない全
ての事例収録」であり,とくに失敗事例の収集を重視し,化学農薬が天敵に与える影
響,天敵が環境に与える影響等も考察・備考欄で記入を要請する。なお,全文検索を
前提に記入様式の自由度を高く設定し,日植防委託試験報告書,成績概要書,論文,
新聞記事等も添付できる。
 ②データベースの登録,③ホームページでの公開,④事例の検索・利用,に関する
システム開発は現在農研センターと中国農試が主になって進めており,テストランと
チェックを重ねた後,公開する予定である。なお,②データベースへの登録は,イン
ターネット上の操作に不慣れな利用者の利便性を考慮し,当分の間,郵送カルテシー
トを事務局が登録する方式も併用する。
  ⑥〜⑩は主ターゲットとする利用者(天敵使用経験の少ない改良普及員,農協営農
指導員,天敵販売業スタッフ,コンピューター利用に関心のある農家等)の利便性を
重視した支援システムである。いずれも現時点での案であり,今後各方面からの意見
を取り入れて改訂していきたい。⑥および⑩については解説は不要であろう。
 ⑦天敵IPMガイドは,天敵カルテを利用した天敵使用のためのガイドブックであ
る。任意の作物と害虫の組合せについて失敗事例1例を示し,それに対して具体的に
アドバイスするとともに,アドバイスを導き出した成功・失敗事例のデータベースか
らの引き出し方を例示する。インターネット上の操作に不慣れな者でも,これにした
がって操作すれば天敵カルテ利用のノウハウが得られ,同時に操作の習熟が進むこと
を目指している。当初は数件の作物と害虫の組合せで出発するが,多数の利用者が自
由に参加して,不備を感じた経験をもとに,より利用しやすいものへとどんどん改訂
されることを望んでいる。
 ⑧天敵IPMメーリングリスト(以下ML)は,インターネット会議室&質問コー
ナーと考えてもらえばよい。MLは完全公開とし,農家,農協営農指導員,改良普及
員,病害虫防除所スタッフ,都道府県・国立試験場・大学等研究者,市町村・都道府
県・農水省・環境庁等行政担当者,日植防・全農・農薬工業会等関係機関,企業,マ
スコミ,消費者団体等のスタッフほか,一般市民を含め,希望者が個人資格で加入す
る。
 MLにおいてはメンバーが天敵使用にあたって各自の疑問・質問等を提出し,他メ
ンバーによる回答・情報を得て,天敵使用の効率化を図り,さまざまな問題を検討す
る。その際,「案内人(質問等の交通整理者)」を複数置き,自発的回答者がいない
場合には各質問に対する回答者を指名するなどして,迅速かつ円滑な回答を提供する
。また,各自の普及・基礎的応用的研究の情報を紹介し,メンバーによる有益情報の
共有化も図る。なお,ML上でのやりとりは全てデータベース化されるので,後日の
検索も容易である。
 ⑨天敵IPMアドバイザー(以下アドバイザー)はボランティア登録制とし,経験
の少ない天敵利用者に対するアドバイスを行う。とくに初めて天敵を使用する場合は
アドバイザーの利用を強く勧める。アドバイザーの主力は天敵IPMの普及に最も貢
献すると考えられる農協営農指導員,改良普及員,天敵メーカー・商社・販売業スタ
ッフ,都道府県・国・大学等研究機関スタッフになるが,農家ほか一般の希望者もア
ドバイザーとして登録できる。
 アドバイザーの資格条件は天敵カルテの入力・利用ができ,MLに加入することと
する。ML加入は,アドバイスにあたっての疑問点・問題点等をMLに提示し,他か
らのアドバイスを受けられるメリットがある。また,さまざまな形でアドバイザー養
成講習も行う。
 ⑤新事例の記入は天敵カルテの発展にあたって重要なポイントである。天敵カルテ
を情報源として利用するだけでなく,自分自身も天敵カルテにノウハウ・情報を提供
し,天敵カルテの改良を提案することにより,日本における天敵IPMの真の発展が
実現すると考えられる。情報を多く発信する者に情報が多く集まる,という法則を強
調しておきたい。

4.天敵カルテの具体的効用と波及効果
 3と一部重なる点もあるが,整理して述べておく。
 ⑪高レベル複合的条件の検索:日本で天敵を利用する場合,前述のように効果を発
揮する条件はかなり複雑であるが,多数のデータによってその条件を捜し出すことが
できる。
 ⑫情報の即時性:天敵利用に関する新しい情報・ノウハウが即時に伝達され,共有
される。とくに失敗事例の情報を共有することにより,無駄な失敗の繰り返しを防止
できる。
 ⑬的確な助言体制:⑧ML,⑨アドバイザー制度により,経験の豊富な者から的確
なアドバイスを受けることができる。
 ⑭的確な天敵導入:⑪〜⑬の結果,その時点での最良の情報に基づいて的確な天敵
導入方法を選択できる。
 ⑮研究へのフィードバック:現状では天敵使用現場の情報は研究者にうまくフィー
ドバックされていない。天敵カルテの開設・充実にともない,それぞれの天敵につい
て,栽培体系や農薬等が天敵に与える影響,天敵が生態系に与える影響をはじめ,さ
まざまな問題点が効率よく研究者にフィードバックされる。その結果,研究目標が明
確になり,人的・資金的研究資源の投入が効率化し,日本の栽培環境条件に適応した
天敵の育種等も活発化する。

5.おわりに
 北ヨーロッパと異なる戦略に基づく天敵カルテを用いた日本型天敵利用方法は,日
本の技術者・研究者の層の厚さに支えられて急速に進歩すると予想され,日本と似た
状況にある南ヨーロッパやアメリカ合衆国だけでなく,今後天敵の積極的利用を試み
る国々のモデルになると考えられる。
 締めくくりとして,天敵カルテの将来を考える上で参考になる現象を2件述べてお
きたい。Linux という Microsoft-Windows に相当するコンピューターの基本ソフト(
OS)がある。このOSはインターネット上で公開され,多くの人がさまざまな動作
条件でテストして改良を重ね,急速に進化して Windows を脅かす存在になりつつある
。少数のプロによる開発と,無数のボランティアによる開発と,より優れたものはど
ちらから生まれるのか。すでに結果は出たと言ってよい。また,代表的な日本語ワー
プロソフト一太郎が創生期に急速にシェアを広げた大きな原因は,損を覚悟でコピー
プロテクトをかけなかったことにあると言われている。
 情報の公開はさまざまなデメリットもともなう。個々の企業や産地が目先の損を被
ることはその最大のデメリットであろう。しかし,情報の公開によって天敵の利用が
広がるとともに優れたノウハウが蓄積されたならば,また情報をより多く発信してネ
ームバリューを獲得したならば,目先の損をはるかに上回る将来の利益が得られるこ
とは容易に想像できる。「まずはパイを大きくする」を合い言葉にするのはいかがで
あろう。
 天敵カルテは消費者や流通・マーケティング・コンピューターシステム関係者等を
含め,「徹底した公開と提言の受け入れ」を標榜して,より利用しやすいシステムに
進化させ続ける,という基本戦略を採るべきであると考える。